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お墓の豆知識

お墓の豆知識

いろいろなルーツ

沢庵(たくわん)漬けの由来

「たくわん」は、沢庵和尚の郷里で作られていたそうです。 そこでは、「千本漬け」「百本漬け」「貯え漬け」と呼ばれていましたが、徳川家光が東海寺を訪れた時に沢庵がこれを供したところ、家光が「沢庵漬け」と命名したと言われています。

隠元(いんげん)豆の由来

いんげん豆は、中国から来た僧「隠元」によって伝えられたと言われています。 しかし、本当は隠元と共に来日した明人たちのグループが持ち込み、それが広まったと考えるのが正しいようです。

茶を招来した人物

中国から初めて茶を招来したのは栄西だといわれています。 栄西は喫茶養生記の著作も行っています ちなみに茶は、宋では、弾僧たちの居眠り防止薬でもあったようです。

伝教大師

伝教大師こと、最澄は「山家学生式」、「依憑天台宗」等の著書を書いて、修行の規則を定め、菩薩増となることを説きました。 どの開祖にも共通する奇瑞話があり、ライバルである空海とは好対照でした。

曹洞宗の祖「道元」

道元は、読経・念仏を益の無いことと否定し、真言宗・真言密教も否定しました。自分の曹洞宗も禅宗も否定していたようです。 道元の思想の根幹は、只管打坐で、坐禅は男女貴賤の別なくでき、修証一如、坐禅することがさとりだと説いたようです。

浄土宗の開祖「法然」

法然の思想は、<選択本願念仏集>であるようです。 弥陀は、いっさいの諸行を捨て去り、「称名念仏」の一行を選び取りそれを本願としています。 念仏は誰にでも易業で皆平等であり、念仏を専修すればみな往生できると説きました。

弾林の反逆児『一休』

師の印可証を拒否し、門弟の上に君臨するを潔しとせず、そして肉食妻帯の禁止を破りました。 その根底は、形式や虚偽を排して、『道心』を第一義としていたようです。 それは、いかにも人間的で,人生求道な仏教をおこなっていました。

『法華経』中心の仏国土に

日蓮宗の開祖日蓮は、『法華経』が真の仏教だと確信し、他の宗派にも『法華経』に従うべきと言って、反発が起きて、伊東に島流しにされ、2年間を過ごしたようです。再び鎌倉に戻り信念を貫き、61歳で波乱の生涯を閉じました。

『踊念仏』

時宗の開祖『一遍』は、南無阿弥陀仏を唱えながら踊っていました(現在に置き換えるとストリート・パフォーマンスのような)。この踊りを続けるうちに、人々は法悦状態に導かれました。新興宗教踊る宗教のさきがけで、盆踊りのルーツとなっているようです。

『心頭滅却すれば、火もまた涼し』

快川は、武田信玄と親交が深かったようです。信玄が亡くなり、その後を勝頼が継ぎました。天下統一の野望に燃えていた信長に武田一族が滅亡に追いやられた時、快川も一緒に火を放ち死につく時残した言葉が、『心頭滅却すれば火もまた涼し』だったそうです。

比叡山の超エリート

円人は、中国から修行を終え帰国。比叡山を中心に活動し、密教的色彩の濃い教学が天皇と貴族階級に支持されて854年に『天台座主』の座を与えられました。 下野国出身であたので、関東・東北への布教にも努めそれが評価され、師である最澄とともに『慈覚大師』を諡号されました。

浄土真宗の開祖

親鸞の思想は、『ただ念仏して弥陀にたすけまゐらすべしと、よき人の仰を破りて信ずるほかに、別の子細なきなり』と念仏にあると明確し、自身の罪悪性の認識から『善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや』と悪人こそ救済の正機であると説きました。

真言宗の開祖『空海』

空海は、奈良時代末期の宝亀5年6月15日香川県の善通寺で生まれたと言われていますが、はっきりしていないようです。空海が名もなき庶民の家の出であったかというとそうでもないようで、父は名門・大伴氏につながる佐伯氏の一族、藤原一門の隆昌にともなって中央政界での力は急速に衰えていったとはいうものの、地方の中堅の豪族でした。母方は、渡来系の氏族・阿刀しの出で、空海は『地方の御曹子』ということになります。幼名『真魚(まお)』

地蔵菩薩 (じぞうぼさつ)

大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩の人々をその無限の大慈悲の心で包み込み、救う所から名付けられたとされる。一般的には「子供の守り神」として信じられており、よく子供が喜ぶお菓子が供えられています。一般的に、親しみを込めて「お地蔵さん」、「お地蔵様」と呼ばれる。

日本においては、浄土信仰が普及した平安時代以降、極楽浄土に往生の叶わない衆生は、必ず地獄へ堕ちるものという信仰が強まり、地蔵に対して、「地獄における責め苦からの救済を欣求するようになった。」
賽の河原で獄卒に責められる子供を地蔵菩薩が守るという民間信仰もあり、子供や水子の供養でも地蔵信仰を集めた。関西では地蔵盆は子供の祭りとして扱われる。

また道祖神と習合したため、日本全国の路傍で石像が数多く祀られた。
菩薩は如来に次ぐ高い見地であるが、地蔵菩薩は「一斉衆生済度の請願を果たさずば、我、菩薩界に戻らじ」との決意でその地位を退し、六道を自らの足で行脚して、救われない衆生、親より先に世を去った幼い子供の魂を救って旅を続ける。幼い子供が親より先に世を去ると、親を悲しませ親孝行の功徳も積んでいないことから、三途の川を渡れず、賽の河原で鬼のいじめに遭いながら石の塔婆作りを永遠に続けなければならないとされ、賽の河原に率先して足を運んでは鬼から子供達を守ってやり、仏法や経文を聞かせて徳を与え、成仏への道を開いていく逸話は有名である。

このように、地蔵菩薩は「最も弱い立場の人々を最優先で救済する菩薩」であることから、古来より絶大な信仰の対象となった。

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