寺院紹介
功徳山 当信寺とうしんじ(白石市)
当信寺は法然上人によって開かれた浄土宗の寺院であります。正しくは、功徳山 泰陽院 当信寺と称し、慶長二年(一五九七)青蓮社良益上人によって開山されました。
当時白石は蒲生氏の領地でありましたが、片倉小十郎が城主となるや、城下町の整備区画にともない、慶長九年現在地に移り、片倉家臣、小片丹後仲知が寺院を建立しました。
山号の泰陽院とは、片倉家二代、重長公の後室、真田幸村娘阿梅の方、泰陽院殿松源壽清大姉の菩提寺になったことに由来いたします。
明暦二年、重長公より五百壱文の知行を拝受し、領内四ヶ寺の一の寺格をもつ寺院となりました。
安永二年(一七七四)類焼に遭い、本堂、地蔵堂などすべてを焼失してしまいましたが、天保元年(一八三〇)真田阿梅百五十回忌を仮堂で営み、十九世智山上人はこの用材を受けて本堂再建に取りかかり、天保二年、吉見清八郎を作事役として建立し現在に至っております。
浄土宗 当信寺(白石市) | |
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所在地 | 〒989-0275
宮城県白石市本町62 |
電話 | 0224-26-3473 |
アクセス | 白石駅より徒歩8分 |
この門は白石城の二の丸大手二の門、通常東口門といわれておりました。長さが四間一尺八寸、横は二間あり二階門で中央一間が入り口になっております。二階中央には時を告げる太鼓を吊るしておりましたので床には角格子がはめてあります。旧白石城の遺構を伝える数少ない建造物です。
この地蔵尊の開基は寛永五年(一六二八)、会津の大保良元の興建なるものとありますが安永の火災で焼失しました。その後、嘉永五年(一八五二)当山十九世智山上人が「子安地蔵尊再建奉加帳」を作成し一般信徒からの寄付によって再建いたしました。
御本尊の子安地蔵尊は木仏立像で身の丈三尺、御腹篭りの小さな胎内仏を秘めている。安産子育ての地蔵尊といわれ、毎年八月二十三日が祭典日です。従来、旧暦の七月二十三日に行われておりましたが、よく雨が降ったことから別名「濡れ地蔵様」と言われ、当日一滴でも降ればその年の安産間違いなしと言われ親しまれております。祭典では紅白のお枕が用意され安産祈願がおこなわれます。
本堂裏手の境内にある、頬ずえをして冥想している石仏が真田幸村の娘、阿梅のお墓です。その隣の山誉浄庵居士と刻まれた墓石が次男、大八のお墓です。大阪夏の陣で豊臣家は滅びるが、幸村は討ち死にする覚悟決め、敵将片倉重長に子供たちをの養育を託しました。彼らは白石城の二の丸で秘かに養育され、阿梅は重長の妻病死後、その後室となり七十八才で没しました。大八は片倉四郎兵衛守信と名乗り千石取りの武将となり五十九才で没しました。
阿梅の墓は頬ずえをした半伽思惟像であるが、近隣の人々はこの像のポーズが虫歯に耐え忍んでいる「虫歯の仏」として痛む歯に付けたため至る所が削り取られてしまっています。これらの墓をとおして数奇な運命を辿った真田一族の往時しのぶことができます。
継承者のいない方、管理者がいないお墓、自分のお墓を持ちたくない、様々な理由があると思います。亡くなられた方を当寺院がしっかりと管理し供養致します。ご家族ご親戚が遠方にいる方でもご安心いただけます。詳しくはお問い合わせ下さい。
元禄年間(一六八〇~)の奈良の大仏復興に尽力した東大寺(奈良市)の僧公慶(こうけい)上人(一六四八~一七〇五)の大仏修理勧進活動(だいぶつしゅうりかんじんかつどう)に関連して造られました。江戸時代に公慶上人は大仏体内に組まれた木材を取りかえる際、大仏体内を支えていた旧材で約千体の仏像を製作しました。背面には公慶上人の「大仏腹内之」「以古木造之」の墨書や署名・花押があります。
現在、所在が確認されているのは六体だけで、そのうちの一体です。立像で高さ四十二・六㎝のヒノキ製。平成十七年に奈良国立博物館で開かれた特別展「東大寺公慶上人」で展示公開されました。
慶安元年(一六四八)阿梅四十五才の時、片倉家が真田幸村の菩提寺として森合(白石市郊外)に月心院を開山しました。しかし、その翌年、阿梅の母大谷氏が亡くなり、京都の名刹竜安寺に葬られた事を知った阿梅が、両親の位牌を当信寺に安置したと寺の記録にあります。
その位牌は、安永三年(一七七四)の白石大火で焼失したと思われます。東日本大震災での本堂・庫裡の修復を機に、二〇一三年その位牌を再現しました。
※写真中央の位牌が阿梅です。左右が両親の位牌になります。